[隨筆] 外交は踊る[47] : 崔浩中   -   번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]

f. 盧信泳長官
 盧信泳外務部長官の誕生は私を大きく驚かせた。私のみでは無く多くの人々を驚かせただろう。それは彼の人品とか能力を疑うのでは無く、他の有資格者もあるだろうにすこし早いではないかとの先入見でだった。後で聞いたが盧長官自身も大きく驚いたと言う。任地のジュネーブで国際電話により長官任命を通告されて、誰かがいたずらするのではないかと疑った程だったとも言われる。
 盧長官は1980年9月に帰国するとすぐ国立墓地へ參拜された。国を守るために命を失った先烈へひとまず頭を下げて敬意を現わす意味は殊勝だと言えよう。なおそれは先任長官等が行わなかった擧動だけに, マスコミに乗せられ幅広く紹介されもしたのだ。
 盧長官は就任後肅正の波に荒らされて外務部職員が多数犠牲されることを塞ぐことに苦心せねばならなかった。すごく苦労したものだが、その頃の状況が不可抗力だったのか又は彼の能力に限界があったのか、親しい同僚や部下等を多数失った。しかしそれはどうする事も出来ない事だったのだ。
翌年の夏に前大統領がASEAN各国巡訪を計画した際、当時マレーシアで勤務中だった私はこれに関わる国際電話を盧長官から受けた。マレーシア訪問が必ず適うように全力を尽くせとの事だった。インドネシアを始点として、シンガポール、マレーシア、泰国、フイリピンの順序で日程を組もうとするが回敎国であるマレーシアは、ラマダンという回敎禁食其間には外賓を受けられないと難色を表明していたのだ。
私は日程を少し替えて、インドネシア訪問後、マレーシアをシンガポール以前に訪問すればラマダンが始まる以前に訪問を終えることが出来る点に着眼し、駐シンガポールとも緊密な協助を取りつつ、粘り強く交渉したあげく、やっと日程を調停することに成功した。
一国の元首が外国を公式訪問すると言うのは普通の事でない故、準備の始まりから訪問を済ませるまで筆舌では表現出来ない程の働きをしたものだが、最も手を焼かせたのは他にあった。
全大統領の訪問日程が順調に進行される中、大使館で非公式晩餐を行っている時の事だった。マレーシアに進出している建設業者を慰勞激勵する晩餐だったので、これに関連する人士のみ招待され、盧長官はその座に同席しなかったのだ。
食事の最中に紙切れが一つ入った。盧長官の電話で受け取るようにとの事だった。全大統領と向かい合って座っていた私としてはまずい事だったが、明らかに急ぐ事だろから受け取らないわけに行かないので、全大統領の了解を得て外へ出た。
盧長官は直にマレーシア外務次官はどんな者かと声を上げて聞く。何のいわれか知らないのでモジモジしていると、共同聲明合意があの人のために難航している、普段どう交渉して来たのかと私を叱るのだった。なにも答えず黙っていると盧長官はがちゃんと電話を切った。
私はすごく不快だったが、それを顔に出さず座へ戻り何事も無かったように平然をよそいつつ晩餐を終える事が出来た。
全大統領を伴って応接室へ入ると上気した顔で盧長官がすでに来て座っていた。盧長官はマレーシアとは共同聲明を出さないのが良いと思うと、全大統領に建議した。マレーシア側が全大統領の南北頂上会談提議を支持すると明記することに同意しない故、その句節が欠けた共同声明はいっそ無いのが良かろうとの事だった。
全大統領は落ち着いていた。午前中にあったマレーシア首相との單独会談でその問題を擧論した時、マレーシア側は全大統領の頂上會談提議を支持する立場を明らかにしつつも、それを明示的に外へ表明することは出来ないと言ったそうだ。マレーシアは中立外交を追求する対外政策上、どちらかの一方を支持するのを対外的に表明する事は出来ず、またそうした場合、中立性を失い、今後韓国の立場を志願する事が却って難しくなると説明したそうだ。全大統領はこの話を聞いて彼の立場を了解してあげると言いつつ、それを大した事と考えていない態度を見せた。
実はその日の朝開かれた頂上間の單独会談の座に靑瓦台儀典首席秘書官が通訳をかねて陪席しただけで、外務部関係者は参席しなかったし、会談後その内容が外務部側にはまだ傳達されなかったために起った事だった。マレーシア側では外務次官が陪席して頂上會談の經緯を正確に知っていたので、共同聲明文案を交涉する過程で我が側が意外に强硬な姿勢をみせるや、これをいぶかしく思ったのは確かだった.
盧長官は全大統領の話を聞いて大きく安堵するように見えた。次の日、全大統領提議とは明示されていなかったけれども、南北韓間の平和的な対話を支持するとの一節が含まれた共同声明が発表されたのは駐在大使の私には実に幸いな事だった。
私は盧長官と長い期間外務部で共に働いていた。駐美大使館では私が三等書記官で彼は一等書記官だったし、彼が企画管理室長だった時私は通商振興課長だった。私が通商局長になるや彼は外務次官の座に上がった。だが正確に言って我等二人の間は近くも遠くもない、まあまあの間だった。それは性格的に大きく違ったからかも知れない。私は彼と座を共にする毎に彼の本心を正確に読むことが出来なくて不安だったのだ。
私が企劃管理室長になってジュネーブより帰国した時、盧次官は私を歓迎しつつ朴東鎭長官の今度の人事異動で私を企画管理室長に択んだのは上手い人事だと言った。それから、朴長官があれほど大幅の人事斷行をしながら次官である自分にはなにも相談しなかったけれど不満は無く、たとえ相談しても意見を述べない考えだったと言った。それはゴルファーにどのクラブが良いと勧めてもそのゴルファーは自分の好きなゴルフクラブを択ぶ事と同じ理屈からだった。
朴長官は盧次官が気に合わないゴルフクラブのようだったのか、就任四ヶ月目に彼を駐ジュネーブ大使に轉出させた。これは盧次官をすごく不快にさせた。より重要な所とか大きい座へ行くのがふさわしいとの期待がつぶれた不満だったのだ。その盧次官が二年足らずで直に朴長官から外務部を譲って貰うとは誰も予想出来ない事だった。
盧長官は就任して間もなく、朴長官が成し遂げて置いた数個の仕事を覆した。外務部幹部陣を新銳化するとの事で局長大部分を副理事官級職務代理で埋めた。朴長官が導入した地域担当官制が不適当だとして課編制に還元させたのだ。
美国のボストン、マイアミ、オランダ・アムステルダム、イタリーのミラノ、トルコのイスタンブールに設置されていた總領事館を不必要だと言って閉鎖した。みんなそれなりに存在価値があるだけでなく、險地勤務を務めた外交官の安息處として提供される所との利点を考えれば、惜しい面も無くはない。
盧長官はまた外務公務員法を制定した。彼が制定したと言うよりは盧長官在任時に制定されたとの表現が正確かも知れない。この法は外務公務員の特殊性を考慮し、その権益を保護するとの事が立法の取旨だろうが結果はそうでなかった。新しく導入された停年制に縛れて多くの有能な経験豊かな外交官等が五十代初盤のまだまだ働くべき歳で外務部を離れねばならない事もあったのだ。
優れて早く昇進した人が、その優れが元で愚かな人より先に外交官を辞めればならぬ残念な事が生まれた。後進のための勇退と言えばそれなりに我慢出来るが、そうでもない。しかしながら法は法である故どうすることも出来無い事だった。
1982年6月に盧長官は在任一年九ヶ月目に国家安全企画部長になった。もう一度みんなが驚く人事だった。盧部長はそれに終わらず1985年5月には国務総理に任命され、再び世人を驚かせた。各新聞には「芋売りが宰相になる」と大書特筆された。
盧総理は実に立派な人物に違いない。1987年5月に総理の座を退くまで、二年余りに渡って改憲論爭の難しい時局中でもその座を上手く守ったのだ。大統領致辭を代読し、地方巡視なんかをやる総理では無く、働く総理、気骨のある宰相になるよう努力した。国会で政策質疑に答辯する時も答弁資料に従わず所信を堂々と披瀝した。
それで後日月刊朝鮮が世論を通じて歴代国務総理の中で最も優れた総理を択んだ時、多くの前職総理を退けて堂々とこの人物に選定される栄光を占める事も出来た。
駐ジュネーブ大使の頃は無聊さを慰めようと官邸の庭に野菜を栽培し、総理官邸の庭にも同じ仕事をなさったとの彼は、官職を離れて暇な身になったからには、大学で講義でもやりたいと言ったそうだが、その執念、その推進力, その野望に鑑み、野菜の手入れや大学講義が彼を満足させない事は明らか過ぎると言えるだろう。

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