[隨筆] 外交は踊る [40] : 崔浩中   -   번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]

8.がかいま大統領片貌

a. 李承晩大統領
大韓民國初代大統領である李承晩博士は1948年8月15日朝鮮總督府だった中央庁で擧行された就任式で、大統領就任宣誓文を朗讀し、その下に筆で李承晩と三つの字を書いた。その時はテレビがまだ出ていなかったし、私はその場面を数日後どこかの映画館で大韓ニュースを通じて観たのだ。眺めつつ私は苧で織った布のトゥルマギ(韓国式コート)を纏った白髪頭の老大統領が字もすごく巧いなあと舌をな鳴らしたものだ。
次の年私はソウル大学へ入り、その次の年に六・二五事変が起った。雰囲気がすごく騒がしかったが、勇猛なる我が国軍が北朝鮮の共産軍を殲滅している故安心しろとの李承晩大統領放送だけを信じ, 私は避難せず家に居た。ソウルがたったの三日目で共産軍に陷落され、私は三ヶ月間共産治下で苦労せねばならなかったが、仁川上陸作戰に成功したUN軍がソウルを收復するや、私は自由の貴重さを滿喫しつつ久しぶりに街道を闊歩することが出来た。
その後三八線を突破したわが国軍が北進を続けて平壤を占領するのに数日しかかからなかった。急いで其所へ訪れた李大統領が平壤市民等より熱烈な歓迎を受ける場面を載せた写真が新聞一面を埋めたし、それは私を浮き浮きさせたのだ。
しかしその喜びや感激は長く続かなかった。中共軍の參戰で再びソウルを奪われると、私は自願して陸軍通譯將校になり、步兵7師団に配属されて戰鬪に參加するうち、中部戰線で休戰を迎えた。
李承晩大統領は北朝鮮軍捕虜を放す等ありとあらゆる手段を總動員して休戰を塞ごうとしたが無駄だった。 休戰になって間もなく私は新たに編成された一軍司令部へ轉屬され、その創設記念式でようやく李大統領を身近で眺めることが出来た。毅然とした容貌を携えた老紳士といった人相だった.
式順に従って一軍司令官に任命された白善燁大將の国家と大統領に対し忠誠を尽くすとの就任辭が終わると、李大統領は真っ直ぐな姿勢で演壇へ上がり原稿無しで卽席演說を始めた。軍の使命が何かを覚醒させる論理整然とした訓示調の演說が三十分ほどかかったようだ。
李大統領は演說を終えて座へ戻りながら回りを一度見回して再びマイクの前に戻り、今話した事が判らない人々がある故彼等が判る言葉でもう一度話すと言った。座を共にしたUN軍將兵等が目に入ったのだ。李大統領はすぐ前に述べた話をほとんど漏れなく順序通り英語で繰り返した。また三十分ほどかかった。
李大統領の英語実力はすでに知っていたが、記憶力もあれほど優れるとは知らなかったので心の中で舌を巻いた。やっぱり大統領になる人は別に居るなあと思ったものだ。
軍生活三年目に大学へ戻った私はソウル大学の卒業式で、その時には年例行事の如く卒業式に袵席して祝辭を述べた李大統領を遠くだったが再び眺めることが出来、引き続き1956年の春外務部に入った。その頃は6・25事変で廃虚になった国を復旧することに力をいれていた時で、外交も国際的理解と援助を取りつけることへ重点が置かれていた。
国の財政が大変難しい中で外貨を稼ぎ入れる道が漠々としたわが国に取って、少ないドルを節約するのがとても重要だったし、其れ故大統領秘書室、もう少し正確に言えば李大統領夫人フランチェスカ女史が直接少ない外貨を管理していた。
外務部では外貨を使う必要が出来ると、その金額と事由をタイビングした長官名義の英文申し込み書に長官が直接サインして大統領に送らねばならなかったし、フランチェスカ女史の嚴格な審查を得た後、妥當性が認められると李大統領がその書類にSyngman・Rheeの初二字を取りSRと自ら署名してくれる。で、大統領が裁可したとの話の代りに初の二字SRが出たと言った。国文の書類決濟は「可晩」との署名を使用した。
私は1958年8月に外務部へ入って二年八ヶ月目に外貨旅費使用を許可するといった李大統領のS.R.を受けて勇躍美国ワシントンへ赴任した。オタマジャクシ外交官の初海外旅だった。外貨を無駄使いせぬとの事で、公館長を除外した外交官は結婚をしていても妻子を同伴出来なかったが、未婚だった私は妻子との生離別せねばならぬ苦しみを味あわずに済むことが幸いと思えた。
渡美して一年半ぐらい過ぎて美国生活に馴れ、しばらく自由と文明を楽しんでいる時4・19事態が起り、とうとう李大統領下野となった。82才の老大統領が、一個の野人となったからには歩いて景武臺を離れるべきだと言いきったとの消息は、遠い外国でその場面を聯想する私の心を肅然とさせた。人生無常と言おうか、誤りを咎めるとか憎むより晩年に気の毒だとの心が先立ったものだ。
その後間もなく博士夫婦がハワイへ立ったとの消息が入った。大統領にまでなっても自分の国で生きられない数奇な運命だとは、しばらくの間私は何とも言えない複雑な感情に縛られていた。ハワイ亡命数年にも到らず異国で息を引き取った李博士が国立墓地に埋められたのはせめてもの幸いな事であろう。
フランチェスカ女史も生き前にはあれこれ噂が多かったけれども、世を離れるとそれなりに肯定的評價を受けるようになった。倹しい中で李大統領へ丁重に尽くした婦德が穏当な評価を受けたわけだ。
今フランチェスカ女史と並んで横たわった李承晩大統領は、今日のわが国をどのように観ているだろうか。あれほど苦労してたてた国家だからには一日も早く統一して共に豊かな国、自由な国へと発展することを切実に望むことであろう。

b. 朴正熙大統領
5.16軍事革命はみんなを驚かせた。国の将来がどうなるのか不安だったが、「反共を国是の第一義とする」との革命公約がせめてもの幸いだった。
その時私は駐美大使館勤務を終え帰国して七ヶ月ぐらいになったばかりだったが、幾ばくもなく、思いもよらず再び美国へ戻る事になった。外務次官の座に居て、駐UN大使として出掛けることになった李壽榮大使が私を連れて行くことになったのだ。海外勤務から戻ってくると、本部で三年ほど勤務した後に海外へ出る慣例を破るといった衆論がまちまちだったが、李大使は革命を成した非常時局の下では慣例を破って行うことも可能だと言い返した。
李大使を隨行してニューヨークへ行った私は1961年の秋、ワシントンを経てニューヨークを訪問した朴正熙最高會議議長と生まれて初めての握手をした。末端外交官としては稀れな栄光だったのだ。表情は冷たくて鋭いが手は暖かく柔らかだった。
月日が流れて1966年に私は外務部通商振興課長になった。その頃は輸出立国といって政策の中点が國際通商分野に握られていたので、私の座はそれなりに脚光を浴びて居た。それで、私はやっと軍服を脱いで大統領の座に上がった朴正熙大統領主宰下で毎月開かれる輸出振興擴大會議に参席し、その末席を埋める栄光を享受した。
その頃、外務部も輸出增進の一翼を受け持つといって、わが国の両大輸出市場である美國と日本に出ている大使と總領事を本国に呼び入れ、戰略会議を開いた後に短い決議文一つを択んでそれを輸出振興拡大会議で報告することになった。
決議文の內容は、総力を尽くして輸出を多くし国の発展に尽くすとの、すごく簡潔な事であったが、公館長一同が起立した中で代表者が朗読する決意文を朴大統領自身も起立して聴いていて、大きく感動した様子だった。顔がすぐわかる程赤くほてっていた。朴大統領は公館長代表よりその決意文を受けて固く握手した後、直接公館長席を廻りつつ握手で彼等を一々激励した。それから公館長一同を靑瓦台晩餐に招待した。これが今も毎年開かれている在外公館長会議の始まりで、靑瓦台晩餐は必ず成すべき重要行事の一つとして位置づけられている。
朴大統領の直接主宰下で毎月開かれる輸出振興拡大会議は、わが国が輸出を伸ばして貧困から抜け出して経済発展を成し、国家再建に一役を成したのは事実である。其れ故記録に残すべき事が多い。
一度は、絞り染め輸出組合長が建議ではない請願をした。絞り染め製品は田舎の零細農家で副業として作り、それを貿易業者が集めて日本へ輸出しているが、とある一人が特許権を得て、貧しい零細農家から特許使用料を取っていると言うので、これを是正してくれとのことだった。絞り染めは農家で数百年やっていた仕事なのを今になって特許を受けたのは話にならないと言う。
答辯に出た李洛善商工部長官は、そのような請願が何度もあり、特許権を以て法院の判定を受けた事があったが、特許が認められたことがある故、三権分離の基本原則に従いどうしようもないと答えた。
この話が終わるや否や朴大統領は怒氣を含んだ語調でかっと大声を出した。法を利用して貧しい農民の血を吸うのも三権分離のためにどうすることも出来ないと言うのか、と一喝した後徹底的に調査して是非を正せとの俊嚴な指示を下ろした。
間も無くその特許権者は特許を剝奪されたばかりで無く、司直当局から呼ばれて酷い目にあったとのことが新聞に報道された. 同じ事件を同じ法で治めても、判決がこのように変わることがあるとの実例を見て私は少し面食らったが、良民が膏血を吸わされないようになったのが何よりも幸いだった。尚朴大統領の一言がこれほど威力を發揮したのをすごく痛快に感じたものだ。
歳月は休まず流れ、1979年の春私は特命全權大使に任命されマレーシアに赴任することになった。モーニングコートを着て上気した顔で朴大統領より信任狀を受ける私の手が軽く震えた。外務部に入って二十三年目だった。それに私が三等書記官から大使に昇進するまで朴大統領はずっと大統領だったのだ。
信任狀授與式が終わった後、朴大統領は新たに任命された大使一同のための午餐を施しつつ各々と短い話を交した。私にはマレーシアを公式訪問した時を回顧しつつ、その国は山川が青々として美しいが、暑くて苦労するだろうと言いつつ体に気をつけろと労ってくれた。
マレーシアに赴任して四ヶ月目にその国のHussein・Onn首相がわが国を公式訪問することになったので、私は一時帰国し、Onn首相が朴大統領を礼訪する座に陪席した。朴大統領は私を迎えながらご苦労だったと労いつつ、秘書官を通して少なくない激励金を下さった。親筆で「健闘を祈ります、朴正熙」と書かれた短い字が達筆だった。
その時は知らなかったが、それが朴大統領に私が逢った最後になったのだ。マレーシアへ帰って三ヶ月足らずで全世界を驚かせた朴大統領弑害消息が私の耳を疑わらせたのだ。それは誤報ではなかった。民族中興との旗下で、自分だけがその仕事を成せるとがんばっていた朴大統領の過欲がこれほど悲慘な最後をもたらせたのだ。
朴大統領急逝の悲報は翌日の10月27日曙に大使館へ公式通報された。ちょうどその日がマレーシア国王誕生日で、私は祝賀宴が開かれる国王出身州へ行くことになっていた。慶事と慘事が入れ替わる瞬間を実感しつつ、そんな事があるもんか、あるもんか、との思いで、心境が重く千千に乱れた。
朴大統領の国葬が擧行される日, 大使館では館員と僑民一同が集まり厳粛な永訣式を挙げた。私は震える声でその前夜遅くまで独りで整えた弔辭を読んだ。私はその中で「中断する者は勝てない」との朴大統領の話を反芻しつつ, 悲しみを耐え勇気を蘇らせて險難な未来を掻き分けて行くとの決意を表明した。
朴大統領は国の統一と完全自主自立自衛可能な祖国の誇らしい姿を見れずに非命で去ったけれども、我々は一つになって力と知恵を集め、栄光なる祖国の平和統一と、永遠な発展を目掛けて一路邁進することを誓った。
月日は流れて私は思いがけなくも外務長官になり、1990年の春パーキスタンを訪問した。大変な歓迎だった。その国の指導者等と逢いあれこれ話を交す途中、貴国があれ程奇跡的な発展を成しとげた原動力は何かと一人が訊ねた。私は長く説明する必要も無いと考え、それは教育であると短く答えた。文盲率がすごく高いその国の實情を念頭に置いて、教育の重要性を教えてあげようとの心算だった。
すると彼は全く正しい話だと頷いた。それから、パーキスタンはその他にまた一つ切實に必要な物があると付け加えた。それは一人の「朴正熙」と言うのだった。

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