[隨筆] 外交は踊る : 崔浩中 [34]   -   번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]

G. スポーツで踊る.
1. 88ソウルオリンピックの感激 
我等がオリンピックをソウルへ誘致しようと遅れがちながら日本の名古屋と間向かう時、正直言って我等に確実な自信は無かった。尚世界のほぼ全ての国が我等に勝算があるとは考えなかった。
その頃我等全部の決意が凄かったし、誰もが各々の分野で最善を尽くしたおかげで、予想を裏返してみんなを驚愕させる勝利を挙げ、われ等は大きな喜びを分かち合う事ができたのは事実だが、その裏側にわが外交陣の隠れた活動が有ったという事を決して過小評價してはならない。すべての外交網を動員して各国政府のオリンピック委員会を相手に粘り強い支持交涉を展開したのだ。これは名古屋が容易くソウルを押えると信じた日本が取り立てて外交交渉を行わなかった事ととても對照的だった。
実は私も小さな寄與をした。当時私はマレーシア大使として勤務しながら本部指示に従って充実に交渉を展開し、早めに当国の支持確約を受け持ったのでその事実を本部へ報告して悠長に結果を待っていた。
それがドイツのバーデンバーデンで88オリンピック開催国を決定するIOC総会が開かれる数日前にソウルより急電が飛んで来たのだ。マレーシアのIOC委員が体の調子が悪くて総会に参席しないと云うが、一票が切実な時だからうまく説得して必ず参席するようにせよとの事だった。
IOC委員は長官まで登ったDato・Hamzaで、私とはそれなりに親しい人物だった。私は 「Operation Dato Hamza」と命名して、バーデンバーデンへ送る作戦に突入した。それが彼の居所が不明なのだ。家には居ず何処へ行ったのか知らないとのことだった。至る処を探しまわった挙げ句、妾の家で臥病中であることをやっとわかった。だから本宅では知っていても知らないと云ったのだろう。
やっと説得して合うことになった場所に彼がスリッパーを引き摺りながら現れた。たいした病気では無く、足指の間から水膿が出るので長距離旅行は不可能とのことだった。私は一票が気になる実情であることを説明し、費用を負担するから看護婦を連れてぜひ行ってくれと懇請した。最初は難色を示した彼が私の粘り強い説得を受け入れて、IOC総会に参席してくれたのはとても有難いことだった。伴った看護婦が自分の妾だったわけで、それがバーデンバーデン行きを決心した重要な動機であっただろうが。
あらゆる努力が結集された結果で名古屋を多くの票差で退け、ソウルで史上最大の88オリンピックが華やかに開幕為れた時、私はサウジアラビアで勤務していた. で、オリンピックゲームはテレビを通じて観るしか無かったわけだが、其の中でも女子競技は中継されないので、片方のみ観るしかなかった。女性は顔を包んで外へ出ねばならぬ其の国の習慣上、女性が肌をさらけ出して走ったり泳いだりする場面を見せてくれるわけがないのだ。
私がオリンピックを全うに観れたのは1964年の東京オリンピックだった。駐日代表部で勤務しながら苦労して入場券を手に入れ、入場式, 閉会式と, 多くの競技を観ることが出来たのだ。その時、わがサッカーチームは予戦で一度も勝てなかった上に1ゴールもシュート出来なかった。それでも私は大雨に打たれつつ熱烈に応援する愛国心を見せたものだ。
金メダルは夢見ることも出来なかった。ボクシングでやっと銀メダル一つを取ることが出来たのが幸だった。鄭申朝選手が準決勝戦で右手の指一本を怪我したので決勝戦では左手だけで戦わねばならず、そんな中で勝つことを願うことは出来なかったわけだ。
その時私は2次世界大戦で負けて20年足らずの日本がオリンピックを主催することをすごく羨ましがりつつ、我等は何時こんな機会を持つ事が出来るだろうか茫然としたものだ。それが日本でオリンピックが開かれてちょうど24年目にソウルで過去どの大会より優れたオリンピックを立派に開催したのだ。これは永遠に忘れられない感激ではないか。
それだけでは無い。わが選手団が果たした成果はどうなのか。金メダル十二個と世界第四位を成したではないか。もっとも未だに外交関係が無かった共産圏国等が大擧参加してわが国の発展相を見てすごく驚いたのだ。それを転換点にして北方外交を活発に展開する結果で、わが国は世界の東西南北ほとんど全ての国と外交関係を結ぶ全方位外交時代を開く事が出来たではないか。
考えてみるとわが国がオリンピックで行った踊りは華麗で燦爛だ。そして誇らしいのだ。踊っても踊っても疲れないオリンピックの踊りが末長く続くのは確かであろう。

2. サッカーボールは丸い
我等は2002年ワールドカップサッカー大会を日本と共同で開催した。その前まではワールドカップ大会へ出て一度も勝てなかった我がサッカーチームは、ポーランドチームに2対0で勝ちつつ緖戰を飾った後、乘勝長驅してポルトガル、イタリア、スペインを退け4強にまで上がったが、惜しくもドイツに負けることで決勝には上がれなかった。それでも強戦で敗退した日本よりはずば抜けて際立ったし、我がチームの善戰は世界を驚かせたものだ。
サッカー自体も巧かったが、「赤い悪魔」と呼ばれる我が応援団と、これに呼應する全国民の熱誠なる応援も全世界の激賞を受けた。「大~韓民国」と声高く叫び、共に交わって手を打ちつつ我等は忘れていた愛国心と団結心を持ち上げた。このすべてを合わせて見ると大会は自願奉仕団の誠意ある協調にも力付けられて円満に行われたとの定評を受けるに余るだろう。
ワールドカップ大会を誘致するに至っても我等は88オリンピックの時と同じく日本と張り合わねばならなかった。日本に比べて不利な事が多すぎるのは事実だが、それでも一旦刀を抜いたからには必ず目的を達成せねばならぬとの堅い決意で国力が総動員し、過去の経験を生かして外交網を通じた粘り強い交渉が展開され、私も現役から立ち退いた身だがその一翼を担当して自分なりに一役を果たした。
ある日ワールドカップ誘致委員会の責任者であった具平會委員長が逢おうと言い、サウジアラビアが我々を支持するように交渉してくれと願うのだ。私がその国で大使として勤務した事があるからには要路を良く知っているだろうと言う。私が韓国自由総連盟の総裁だった頃だ。
私は大統領特使資格でサウジアラビアを訪問した。その国では大統領の特使だとのことで私を迎賓館で泊まらせる歡待を受けた。私がその国で勤務する間一度も入って見なかった豪華な宮殿だった。幸い外務長官や青年体育舘長が旧面だったので容易く逢えることが出来、穏やかな雰囲気の中で言いたいことを全部話したが答えは曖昧だった。良く解ったと言うだけだ。そう言うしかない事には、つい先週に日本交渉団が立ち寄ったので明確にどちらの肩を持つかが難しい実状のようだった。
サウジアラビアは凄く変っていた。我が大使館が居る外交団地一帯が椰子の樹で鬱蒼としていた。以前は砂地でゴルフで無いゴルフをやったが、配水施設を整えた芝ゴルフ場でゴルフを楽しむ事が出来た。これは人間の力が怖いという事を表現したのだ。
Zurichで世界サッカー連盟総会が開かれた時、私は誘致委員資格でわが代表団に入っていた。ワールドカップ開催国を決定する投票が行われる日を前にして我等は連日その対策に沒頭した。勝算は日本と半々と見られるので綿密な準備を整えればならなかった故だ。
決定は以外とあっけなく、そして以前には無かった新たな方向で成された。投票をせず、わが国と日本が共同で開催する事に決定されたのだ。自分達が単独で開催せねばならぬと固執した日本が、そうするとわが国に開催権を奪われるかも知れないと恐れたのか最後に後退してしまったのだ。我々としては物足りなかったけれども良い決定として受け入れるしかなかった、
何とか成してみようとしていたので気落ちしてしまった我等は、まあスイスへ来たからには観光でもやろうとの意見に一致した。私は李源京前外務長官と韓宇錫前駐フランス大使と共にユングフラウ名山へ登った。案内文がハングルでも書かれているのが、わが国の国際的地位がそれほど高くなった事を示すようで嬉しかった。Lausannにあるオリンピック博物館にも寄ってみた。88・ソウルオリンピックに関する資料も数多く陳列されていて感無量だった。
ついにソウルワールドカップサッカー場で開幕式が開かれた時、私も微力ながら貢獻したとのことで貴賓として招待され、妻と二人の息子夫婦と共にその場に参席する栄光を享受したものだ。
行き届いた良い行事だった. 引き続いて行われた開幕戦で前回の優勝国で世界ランキング一位のフランスが、アフリカで突風を起こして初出戦したセネガルに苦杯を飲まされた異変が起きた。
今度はこれが終わりではなかった。フランスを初めとしてアルゼンチン,スウェーデン、英国等强豪が次々と敗退し、イタリア、ポルトガル、スペインが我等に膝を折ったのだ。サッカーボールは丸い故試合の間に解らない出来事が開かれるといった話を実感させたのだ。
予想した通りブラジルが優勝し、ドイツが準優勝した。私はドイツとの試合を見に行ったが、我がチームは一瞬の失策で惜しくも1対0で負けてしまい、決勝進出が挫折された。続けて我等はトルコとの対戦でも負け、四位に留まったが、それだけでも大変な成績と言えよう。
我等がみんなの予想を覆して四位を成したのはオランダ出身のヒディンク監督がわがチームを强訓させた故可能だったのだ。フランス大会の時我がチームはオランダに5対0で惨敗し、車範根監督がその場で解任される受侮を味わったが、その時オランダチームを率いた人がまさにヒディンク監督だったとの事実は偶然な事では無いように思われる。

3. 跆拳道の宗主国
サッカーは英国、野球は米国、柔道は日本が宗主国と言えば、跆拳道はわが国が宗主国だ。この跆拳道がシドニーオリンピックの時から正式種目に採擇された。そうなるまでは世界跆拳道連盟金雲竜総裁の功が大きかった。
金総裁は私と中学校、高等学校同窓である。勉強もよく出来たが多才多能だった。校内学芸会でピアノ演奏まで行った。その手を以て跆拳道をやるなんて誰も思わなかった。彼が駐UN代表と駐米大使館で外交官生活を行うまで、自宅に客を招待して食事をもてなした後、余興として自ら煉瓦を砕く妙技を演出したのは驚くべき事だった。
多くの外国語が巧かった中で特に英語の実力が目立った彼は若い頃から外交官が夢であって、一時期その道を歩きもしたが、偶然な機会で韓国跆拳道連盟会長職を受けることになってから新たな道を踏むようになった。外交手腕が優れた彼はその後跆拳道の世界化に盡力して今日に到ったのだ。
事実跆拳道は有用な外交手段として活用されて来た。美国を初めとする先進各国は言うまでもなく、遠く離れた南美やアフリカのいずれの国とて跆拳道道場が無い国は無かったのだ。
始まりは開発途上国に対する技術援助の一環として跆拳道敎官を派遣することより始まった。不馴れの土地で言葉も通じない人々に跆拳道を教え、彼等は我が言葉の口號をそのまま使用した。尚、太極旗に対する敬礼から始めた。これは今までも続いている伝統である。
跆拳道は身体鍛練ばかりで無く、護身策としてもすごい人気を得た。跆拳道有段者が外国国家元帥や王室警護員として活躍すると思えば、外国へ派遣された跆拳道教官達が派遣期間が終わった後にも現地に残って私設跆拳道場を開いたりした。経営が難しくないのでかなり良い利益を挙げる場合も多かった。このようにして我が跆拳道は全世界へ補給されるに到ったのである。
日本では空手というのがあってわが跆拳道を無視し、これを習おうと考えもしなかったけれども、近来に達して日本で世界跆拳道選手権大会が開かれるなど、実に驚くべき発展である。
跆拳道と言えば韓国を考えることになり、金雲竜と言えば跆拳道が浮かぶが、彼の欲が大き過ぎたのか世界スポーツ界の大物として振る舞っていた彼の末路がきれいでなくなったのが気の毒でならない。しかしながら跆拳道が我が国威煽揚に大きく寄與して来た事を高く評価すると共に、今後ともずっとオリンピック種目として残りつつ我が国威宣揚に多く寄與することを期待して止まない。

 

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