[隨筆] 外交は踊る : 崔浩中 [31]   -   번역 [飜譯]/韓日飜譯 [한일번역]


C. APECの誕生
1989年初に訪韓されたホーク(Hawke)オーストラリア首相は、1月30日に盧泰愚大統領と頂上会談を行った座で一つの新たな提議を為された。アジア太平洋地域に協力体を構成しようとのことだった。北美と欧州の間には北大西洋條約機構NATOがあり、欧洲には欧洲共同体(European Community)がある故アジア・太平洋地域にもそれと類似な協力体を置く時期になったのではないかとの論理を広げた。
太平洋を巡る国家間に協力機構を設立しようとの構想はすでに方々で話されていた。其れは美国,カナダ、日本にある民間研究機関等で主に考え出したものだが、まだ政府の公式的同議とか支持は受けずにいる状態だった。
このような中でオーストラリアの首相が先手を打ち、我が国を訪問した機会に公式的提案を行う妙手を出したのだ。率直に話して我等としてはそのような提案があろうとは予想しなかったし、従って外務部が予め作成して靑瓦台へ挙げた会談資料には、この問題に対する我等の立場が含まれていなかった。
盧大統領はこの提案に対する韓国政府の見解がどうなのかとの質問を受けるやためらわず良い構想だと答えた。ホーク首相はこれに力を得て、それではオーストラリアが前に立ってこの問題を推進するから韓国が積極支持しつつ協力してほしいと要望する。盧大統領はすぐそうすると答えた。かようにして両国間で容易くこの問題に対する公式合意が成されたわけだ。
オーストラリアはまるで天職でも受けた如く積極的に行った。いよいよ1989年11月にホーク・オーストラリア首相の招請でこの問題に取り組むアジア・太平洋地域の閣僚会議がその国の首都で開かれた。わが国では私と韓昇洙商工長官が参席した。
会議はそこの特急ホテルで開かれた。エバンス・オーストラリア外相が議長を務めた。四十代初盤の若さだったが会議運営は巧みで円満だった。多くの国より少なくは2、3名、多くは4、5名の閣僚が参加した。主に外相と経済閣僚だった。
会議は順調に進行された。志を共にする国の集まりである故だ。しかしそのような代表団の中で志を共にしない国があるのが異彩だった。それが即ち日本だ。日本では外務大臣と通商産業大臣が参席したが、同じ議題を置いて二人が違う内容で別々に発言するのだ。それはまるで外務省と通商産業省間の主導権争いのように映った。そんな状況が繰り返されるのを見て意地悪議長が、一人の大臣が発言を終えるや否やもう一人の大臣に進んで発言権を与えるので場内に爆笑が起こったりした。
これに比べれば私と韓昇洙商工長官は実に円満な協調姿勢を見せた。予め協議して発言する議題を決めた後、発言内容を整理した。二人とも英語が堪能なので日本大臣達のように同時通訳へ耳を傾ける事を願う「Ear phone、please」という言葉から始める必要が無かった。代表団の中で日本代表団のみ唯一通訳を必要としていた。
日本両大臣のこのような争いはオーストラリア首相が主催した晩餐にまで続かれた。互いに主賓席(Head Table)に座ろうとする。国力に鑑み日本が主賓席の一つを取るのは当然だが、二人とも座らせるわけにいかない。「僕がだめなら君も止めたまえ」と立ち向かっていたが、結局は二人とも他の座に送られ、私はBaker美国務長官、Alatasインドネシア外相、Clarkカナダ外相等と堂々と主賓席に座り、和気藹々な雰囲気の中でオーストラリア首相と談笑する栄光を得た。
四日に渡る会議を終えつつ協力体の名稱はAsia-Pacific Economic Cooperation(APEC)にすることで合議された。歷代經濟協力を增進することを主目的にし,この機構は一つのブロック(Block)を形成するものでは無いとの原則が確認された。自由貿易、自由経済体制を尊重し、ウルグアイラウンド協商早期妥結のために積極協調するとの決意が表明された。
会議は毎年開くことに決定、次の会議はシンガポールで開く事に決定されるや、私はその次の会議はソウルで開かれることを電撃提議した。本部の訓令とか諒解は無かったけれども、素早く行わないと次の訪れが難しいとの判断からだった。最初場内は若干キョトンとするようだったが、これといった反対無しで受け入れられた。それから会議は、一度はASEAN会員国,その次はASEAN会員国で無い国家で代る代る開くことに了解された. このようにしてわが国が世話役を受けていたAPECは順調な誕生を見ることになったのだ。
第2次APEC会議が1990年7月にシンガポールで開かれた時、私は新たに任命された朴弼秀商工長官と参席した。私はもう舊面になった外相等と再会を喜び合った。
その中には中山日本外務大臣が入っていたが、ウルグアイラウンド協商を早期妥結するための別途閣僚會議を開く問題が提起された時、前のオーストラリア会議の時あった外務大臣と通商産業大臣の間の競争が再演され、みんなの顰蹙を買った。
その閣僚会議に参席する閣僚を貿易長官(Trade Minister)とするとの表現に対して中山外務大臣が反対に出たのだ。彼は貿易長官とせずに、Minister concerned with trade、即ち貿易に関する長官と表現せねばならぬとの代案を提示したのだ。そうすることで通商産業大臣だけでなく外務大臣も参席出来るという事を念頭に置いたのが明らかだった。別に反対することも無かったので異議無くそのように修正されたが、これは官僚主義の実状をそのまま見せてくれる一面であった。
私は閉會に先立って来年にみんなでソウルで遇いましょうと挨拶した。誰もがソウル会議に大きな期待を賭けると喜んだ。


わが国は議長国を受け持つ事で一つの大きな荷物を背負い込んでしまった。それはAPEC加入を望んでいる中国、台湾、ホンコンを相手に、彼等全部が受け入れられる条件の下でソウル会議に参加するよう交渉することで、その仕事が容易くないと思われたのだ。それでも至誠天に通ずとの言葉通り一途な努力の結果で、またみんなソウル会議に必ず参加せねばならぬとの意欲が最初から強かったので段々解決の糸口が解れた。
最初中国は自国のみ主権国であり、台湾と香港は中国の一部だとの基本立場だったし、台湾は台湾なりに自分達も堂々とした主権国といった主張を曲げるわけにいかないと言い張る。ただ香港だけはどのような資格でも良いから参席させてほしいと弱い姿勢を取った。
梃子でも動かぬように見えた彼等を相手に我々が掲げたのは嫌なら止めろとの高姿勢だった。互いに譲歩せねば我々としても仕方ないといった傲慢な態度を見せたのが効果を発揮したのは不思議な事だ。中国は台湾が中華民國という国号を使用せず、外交部長では無い経済閣僚を参席させるのは受け入れると後退した. 台湾は最初そんなことは話にならんと飛び上がったが、ついに一歩引いて「Chinese Taipei」との国号では無い妥協的名稱を以て参加することを受け入れた。どうする術も無い弱者の姿勢ではなかろうかと思われる。
このようにして1991年の秋にソウルで開かれた第三次APECK会議の時に私はもう外務部長官ではなかった。副總理に昇進されはしたが、統一院長官に移られていたのだ。APECK会議議長職は私の後任である李相玉長官のものになった。
私は靑瓦台で開かれた盧泰愚大統領主催晩餐場で、数多くの閣僚の中に挟まれているBaker美国務長官、中山日本外務大臣、 Evansオーストラリア外相、Alatasインドネシア外相等、顔見知りの古い同僚と逢い、懐かしく挨拶を交わした。
尚、満場の視線を引きつつ関心の焦点になっているのは中国の銭基琛外交部長だった. 中華民国の金樹基駐韓大使が正式にその晩餐へ参席するなら自分は不参すると突っ張っていた後、台湾大使が来ないのを確認して姿を現したのだ。中華民国という主権国を代表する外交使節として台湾大使が出る場所に自分が行くのは、台湾が主権国だと言うのを受け入れる結果になる故絶対参席出来ないという彼の主張は外務部を大変慌てさせたが、外務部側の切なる願いを受け入れて台湾大使が不参を決定したのだった。
一年前のUN総会の時、ニューヨークで韓中修交を希望する私に忍耐を要望した銭基琛外交部長が私を記憶して懐かしがった。私達は長くは話し合えなかったけれども、その場は我等が案内すべき期間が程なく終わることを予示するものだった。
APECは1992年バンコック会議を経て1993年11月美国シアトルの第五次会議に繋がれた。そして、40代の若い歳であったクリントン美国大統領の提議に依り閣僚会議と共に頂上会議も開かれ、この会議に参席する為に金泳三大統領は就任後美国を最初に訪問した。
このようにして全斗煥大統領が主唱したアジア・太平洋頂上会議は十与年の長い月日が流れた後ついに実現した。これは「全ての事には時がある」といった言葉を実感させるものだった。かようにして、まさに太平洋時代が幕を挙げることになった事を全世界に宣言したわけだ。

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